「単純すぎる」のはどちら?
柔派の主要な論旨は、前項で紹介した論文の中にほぼ出尽くしています。
この考え方は、今日いうところの「動的設計」ですが、それを実地にうつすためには「振動解析」が必要になります。そこで前項の論文に前後するように、真島は、「地震動による構造体の振動時相について」(大正 13 年 2 月・土木学会誌)・「重層架構建築耐震構造論」(大正 15 年 4 月・土木学会誌)という論文を発表して理論的な地固めを図りますが、しかし何ぶんにも現代とは状況が異なるので、そこにはおのずから限界がありました。
その当時、今でいうところの「強震計」がありませんでした(あったのはごく単純な「変位計」で、ようは蝋を塗った板を針の先で引っかいて変位を記録する程度のもの)から、大地震時の正確な加速度記録は存在しません。そしていうまでもなく、コンピュータどころか電卓さえなかったのです。
したがって、真島の提唱した振動理論(今日でいう「モード合成法」のようなもの)といっても、地震波を単純な正弦波(サイン・カーブ)に置き換えて考える、というような内容のものでした。
これに対し、佐野は「耐震構造上の諸説」(大正 15 年 10 月・建築雑誌)で、これを「話を単純化しすぎる」と批判しています。さらに柔構造論についても、「建物の固有周期を 2 秒ほどにすれば安全、というが、固有周期が 2 秒ほどになる地震動がやってこないという保証はどこにもないではないか」という反論を加えています。注)
注)
このあたりは、固有周期のスケールこそ違いますが、昨今しきりに話題になる「超高層建築物に長周期地震動がやってきたら」という問題と基本的には同じものです。
さらにこれに対し、真島が「佐野博士の耐震構造上の諸説を読む」(昭和 2 年 4 月・建築雑誌)においてかなり激越な口調で反論します(ちなみに、経歴上の接点はありませんが、真島は佐野よりも 7 歳ほど年長)。このあたりから、いよいよ論争がヒートアップしていくのです。
ここで真島が(かなりの喧嘩腰で)言っているのは、
「単純化」とおっしゃるが、そちらが提唱している「震度 0.1 で設計すればよろしい」という考え方こそが単純化の極みではないか
という内容の反論で、「地震の加速度の大きさが建物の被害の大きさに直結するわけではない」という事実を、何件かの事例をもとに説いています(ただしさきほども言ったような理由により、この加速度値の信頼性については問題があるかもしれない)。
それにしても、客観的に見て「どちらが単純か」と問われれば、「震度 0.1 」の方がより単純である、とする見方に異論はないでしょう。
しかし何も、剛派は「地震動や建物の振動とはその程度の単純なものである」と主張しているわけではないのです。「地震動、ないし地震時の建物の挙動には複雑精妙で計りがたい部分がある」という認識では剛派も柔派も一致しています。問題はその先にあるのです。
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