耐震建築の主流派
日本の耐震設計の源流は、大正 3 年に佐野利器が著した東京大学の学位請求論文「家屋耐震構造論」にあるとされています。彼はその中で「震度法」と呼ばれる耐震設計法を提唱しました。
あらためて説明するまでもないでしょうが、これは、「建物の重量に何がしかの係数を乗じたものを建物に作用させ、その状態を設計の照準とすればよい」とするもので、この考え方は現在に至るまで連綿と受け継がれています。
この論文は、その後大正 6 年に本になりましたが、現在では私たちが目にすることさえ難しい状況です。もちろん私自身も読んだことがないのですが、幸いなことに、大正 4 年 3 月の建築雑誌に「家屋耐震構造要梗」というタイトルで、佐野の行った講演の梗概が掲載されていますので、これに頼りながら話を進めることにします。
さて、注目すべきは、すでにこの中で「柔構造」「剛構造」という概念が使われていることです。具体的に言いますと、
大地震の周期(原文では「振動期」)はおおよそ 1 秒ないし 1.5 秒くらいのものと考えられるが、それよりも建物の方の周期が長いものを「柔構造」、短いものを「剛構造」(原文では「剛の構造物」)と名付ける
としています。
そしてさらに、ここには、「建物の周期が地震動の周期よりも短いと全地震力が建物に作用するが、建物の周期の方が大きい場合はその地震力が建物全体にかかってくることがなく、しばしば非常に有利になる」と書かれています。なんと、これは柔派の主張そのものです。
しかしその後段では、「耐震性の上でもっとも経済的でかつ優れたもの」として鉄筋コンクリート造をあげ、特殊な形状のもの(塔状のもの)については鉄骨造を勧める、としています。さらに、鉄骨を鉄筋コンクリートで被覆したもの(いわゆる SRC 造)なら万全であろう、と書かれている。剛派の主張に戻っているのです。注)
注)
1906 年(明治 39 年)にアメリカのサンフランシスコで「サンフランシスコ大地震」が起きていますが、東京大学の学生だった佐野は震災の視察に出向き、その成果を「米国加州震災談」(明治 41 年 1 月・建築雑誌)にまとめています。この時の経験が、まず最初に、佐野に鉄筋コンクリート造への信頼を植えつけたとされています。
そもそも、この講演の梗概だけから彼の主張全般を理解することに無理があるのかもしれませんが、それにしても、ここにある内容は、その後の柔剛論争における「剛派の総帥」というイメージとは幾分異なります。
が、その後にあった関東大震災が剛派の思想をますます堅固なものにしたのです。
以下、このあたりの事情は、藤森照信著「建築史的モンダイ」(ちくま新書・筑摩書房)におさめられている「柔構造か剛構造か、それが問題だ!」という小文の受け売りで進めさせてもらいます。
これによれば、佐野を筆頭とするグループは大正期に東京駅前の丸ビルと郵船ビルの構造設計を依頼され、これをアメリカ式の鉄骨造で計画したのですが、これが関東大震災でものの見事にやられてしまった。といっても構造体そのものではなく、「大きな変形量」という柔構造の宿命のために、仕上げ材や設備配管が壊滅的な打撃を受けたのです。
それからもう一つ、佐野が若い時に日本最初の本格的な鉄骨造ビルとして構造設計を担当した丸善ビルの骨組が、火災の熱によって無残にも折れ曲がってしまうという経験がありました。
この小文によれば、そのような一連の出来事が「鉄骨造への不信 = 鉄筋コンクリート造への信頼」という佐野一党のトラウマを形成した、とされています。
前項で述べたように、真島は自分の設計した鉄筋コンクリート構造物を目の当たりにして柔構造の想を固めたわけですが、このことと上の事実を考え合わせてみると興味深いものがあります。
柔剛論争というのはたんなる机上の議論ではなく、その背後には、
- 海べりに建てられた、表面が剥落して鉄錆が浮いている鉄筋コンクリート構造物(それを見ている真島健三郎)
- 仕上げ材が剥落して裸木のようになった鉄骨、あるいは熱によって無残に変形した鉄骨(それを見ている佐野利器)
という二つの風景があったのです。
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