真島健三郎という人

日本の近代建築史を飾る柔剛論争というと、あたかも日本の建築アカデミズムを二分したカンカンガクガク状態を想像するかもしれませんが、実際はそうではありません。
柔派の論客として表だって登場するのはただの一人だけ−−それが真島健三郎という人です。これに対する剛派の方には、たとえば佐野利器(としかた)とか武藤清とか、東京帝国大学(以下、東京大学)を本拠として日本の耐震技術を切り開いてきたビッグネームが、それこそ綺羅星のごとくに並んでいます。
つまるところ、これは「真島健三郎 vs. アカデミズム」の対決だったのです。注)

注)
武藤清はある論文の中で、「柔構造がよいと考えているのは真島博士ただ一人であろう」と書いています。ここからも、「真島健三郎 vs. アカデミズム」という表現があながちオーバーではないことが分かると思います。

そういうことになると、一市井人である私としては真島さんの方に大いに肩入れしたくなるところですが、もちろん、真島健三郎は「一市井人」ではありません。
「海軍省建築局長」という肩書をもつ技師でした(「技師」というと、今はたんなる「エンジニア」の意で使われることが多いかもしれませんが、当時、この身分は内閣の任命になる高等官を意味するものだったのです)。

ところで、ここで何とも興味深いのは、後に柔派の論客となる真島が、じつは日本の鉄筋コンクリート構造の分野におけるパイオニアで、明治 37 年(あるいは 38 年)に日本最初の鉄筋コンクリート構造物の設計に関わっていることです。注)

注)
このあたりの年代、あるいはこれが本当に「日本初」だったのかどうかについては異説もあるようです。興味のある方は、近江栄著「光と影・蘇る近代建築史の先駆者たち」(相模書房)の「日本におけるRC構造建築のさきがけと海軍技師・真島健三郎について」をお読みください。

鉄筋コンクリート造が「剛構造」、鉄骨造が「柔構造」の代名詞であることはほとんど常識に属することがらですが、その鉄筋コンクリートの大家が、自らが設計した建屋の 5 年後・10 年後の姿を間のあたりにして少なからず疑念を抱くことになります。
このあたりの事情は、大正 13 年 4 月の論文「耐震家屋構造の選択に就て」(土木学会誌)で、「私も最初は鉄筋コンクリートの信仰家で・・・」と前置きしながら縷々解説されていますが、その要点は、鉄筋コンクリート構造物の「耐久性」ということに尽きています。
年を経るごとに表面に亀裂が増え、さらにコンクリートそのものの劣化によって鉄筋の錆が誘発され、被覆コンクリートが少しずつ剥落していく様子を見て、「こんな状態の建物に大きな地震がやってきたら一体どうなるのか」という不安にかられたのです。注)
「欧米で開発された鉄筋コンクリートという技術を地震国である日本にそのまま持ち込むのは危険ではないか」という疑念を抱いたのでした。

注)
ただし、海軍省建築局という職掌上、彼の設計した建屋の多くは海岸にあり、絶え間なく潮風を受けるという、コンクリートにとって最も厳しい条件下にありましたから、その点は多少割り引いて考えるべきかもしれません。

そしていよいよ、この論文の後半において、「鉄筋コンクリートより鉄骨」「剛より柔」という柔派の主張が展開されて行きます。
まさにこの部分こそが柔剛論争の引き金になるのですが、この主張がなぜそんなにセンセーショナルなものであったかを理解するには、その時代背景を知っておく必要があります。

この論文が発表された前の年、つまり大正 12 年の 9 月に関東大震災が起きています。したがって、この当時の建築界(というよりも社会全体)の主要なテーマは「震災後の復興」であり、「地震に強い建物はどうあるべきか」でした。しかも、早急に何らかの結論を得る必要があったのです。
そのような状況の中で、真島がことさらに「剛より柔」を主張しなければならなかった理由は、その基礎となる耐震規定の策定作業が剛派の主張にもとづいて着々と進められようとしていたからです。大正 13 年の 6 月、つまり真島の論文が発表された 2 ヶ月後には「市街地建築物法」という法律の中に初めての「耐震規定」が盛り込まれることになりました。
真島の論文は、そのような状況に対する「異議申し立て」だったのです。