気になるニュース −書類送検された構造設計者−

東日本大震災の折に、東京都町田市にある量販店の屋上駐車場に向かう斜路が崩落し、死者 2 名を含む計 8 名の死傷者が出た。それを受けて、つい先日、この建物の設計に関わった 4 人の建築士が書類送検されたというニュースが流された。東日本大震災による建物の事故で刑事責任が問われるのは初めてのことだという。
注目したいのは、これが今までに時々あった「構造計算書の偽装」あるいは「建築士免許の偽造」のような単純かつ稚拙な案件とはまったく違うことである。
ここには明確な建築基準法違反もなければ構造計算書の偽造もない。設計上のミス、もっと端的な言い方をすれば「構造計画の悪さ」がこの事故を招いたと判断されたのだ。したがって、確認申請の審査側の責任は問われなかった。

ちょっと気になることがあるのは、これに関連して

建築基準法では震度 5 強の地震に対して建物が耐えられるように求められているにもかかわらず、この構造物は震度 5 弱で崩落してしまった

というような複数の報道があったことである。「だからこの建物は建築基準法違反である」と言いたいわけではないだろうが、いうまでもなく、建築基準法の中に「震度 5 強に耐えられるように」という明確な性能目標が設定されているわけではない。私たちは、たんに、「建築基準法に則った設計がなされた建物は震度 5 強程度の地震にまで耐えられる」という事実を経験的に知っているだけなのだ。
だから「震度 5 弱」という判断基準をここに持ち出しても意味がない。そうではなくて、「近隣の建物に何の被害もないのにこの建物だけが突出して事故を起こし、その結果死者まで出した」という事実が問題にされているのであり、その「結果責任」が設計者に問われているのだ。
私は法律の専門家ではないので、はたしてこれが刑事罰を科されてもやむを得ない案件なのかどうかについては判断できない。それについては今後の検察の動向に注目することにして、とりあえずここでは、建築構造という仕事に多少の関わりをもつ人間の一人としての感想を記すことにしたい。

すでに目にした方が多いかとは思うが、新聞紙面等で紹介されているこの建物の略図を下に掲げておこう。

建物本体は梁と柱で構成された純ラーメン構造で「非常にやわらかい」のに対し、斜路側はプレースが入った「非常にかたい」構造になっている。あるいは斜路そのものが巨大なプレースになっていると考えてもいいのかもしれないが、とにかく「かたいもの」と「やわらかいもの」が一緒に揺すられたために、その境目に非常に大きなストレスが作用した、というのがこの事故のメカニズムのようである。
斜路が「片持ち梁の固定辺」のような役割を果たして建物が激しく揺すられた、と考えてもいいかもしれない。だから、建物と斜路の接合部には大きな軸力と剪断力が作用した。

しかし報道によると、この接合部は「 6 枚の板でボルト留めされていただけだった」とある。私自身は図面を見たわけではないので報道にたよるしかないのだが、この内容からすると、建物側に溶接されたガセットプレートに斜路を支える梁が数本のボルトで「ピン接合」されていたと考えていいだろう。そのプレートに大きな力が作用して引きちぎられたか、あるいは溶接部が破断したと思われる。
もしこの部分がピン接合ではなく、建物本体の柱に「剛」に接合されていたら、その分だけ構造体の冗長性が増し、少なくとも「梁がモロに落ちてくる」という最悪の事態だけは避けられたはずである。そのことは少し残念に思う。
( ちょっと話がそれるが、かつて本欄で取り上げた柔剛論争において、「地震のような不確定性の強い事象に対しては建物を剛につくっておいた方が安全である」という「剛派」の基本主張を思い出した。)

しかしこのような構造物を設計したとしても、そのこと自体が建築基準法にふれるわけではない。それなりの構造計算書を作れば、これは「法令その他の諸規準に適合した建築物」になるのだ。
ここで気になるのは、法令うんぬんよりも、はたしてこれが「技術的な常識に反したとんでもない設計」なのだろうか、ということである。
少なくとも私には、そうは思えない。どちらかといえば、私には「ふつうの構造設計者が思わずやってしまいそうな設計」に思えて仕方がないのだ。
( ちなみに報道によれば、もともとは建物側もプレース構造だったものが、建築主に「工期の短縮」を要求されて設計変更がなされた経緯があったらしい。)

となると、問題は「どうしたらこのような設計を防止できるか」ということになるのだが、その答えは一つしかないのではないか。
それは、このような構造体の図面を見せられた時に、設計者がそこから「何かイヤな感じ」を看取することである。別に構造の担当者に限らないが、件の図面が複数の建築士の目を経ていく段階で、誰かがそこから「何かイヤな感じ」をかぎとっていたならば、もしかするとこの事故は防げたかもしれない。
そして、その「何かイヤな感じ」を検証あるいは払拭するために構造設計者が「構造計算」を始めることになるのだ。「最初に構造計算ありき」ではないし、「正しい構造計算をしたのだからこの建物のは安心」ということでもない。なぜなら、「起こり得るあらゆる与件を考慮に入れた構造計算」など望みようがないからである。
ひどく「前近代的」な結論で失笑をかうかもしれないが、今回の報道を目にして、私は以上のようなことを考えた。

( 文責 : 野家牧雄 )